今も残る祖母との暮らしの名残
2021/05/27
昨年、祖母が2人とも天国に旅立ちました。
特に父方の祖母とは、物心つく前から大学に進学するまで一緒に暮らしたこともあって、
たくさんの思い出がよみがえりました。
はじめは祖父母と両親と私で暮らしていましたが、
両親は仕事が忙しいこともあり、ご飯を食べるとき以外はほとんど祖父母と過ごしていました。
その日学校で会ったことなどを話すと、楽しそうに祖父母は耳を貸してくれました。
私が10歳になるころ、両親は実家からほど近いマンションに引っ越すこととなりました。
両親と祖父母の生活リズムが合わず、いさかいが増えてしまったための決断です。
「暁人はどうする?」
両親は私が祖父母に、非常になついていることを理解し選択させてくれました。
私も祖父母と離れたいとは思えず、両親もすぐ近場で暮らすことから
実家に残ることを決めました。
それから祖父母と私の3人暮らしがスタート。
大正生まれの祖父母は生活リズムが確立されていて、
毎朝7時に朝食を取り、夕飯も18時から食べ始めます。
18時を過ぎてから帰ると怒られることもありました。
またどこへ行くにも必ず最初に言われるのは、『手を洗いなさい』ということでした。
予防という観点もありますが、それ以上に
訪れた場所を自分たちの手で汚さずきれいに利用する、
という思いが込められていました。
両親の仕事の状況によって、日々夕食を取るタイミングが変わっていた以前の生活から
ガラリと変わり、規則正しい生活が身についていきました。
祖父母は毎年、旅行に連れて行ってくれました。
特に東北四大祭りを巡った旅行は、祭りの活気も相まって、今でも目に焼き付いています。
私が中学1年生の頃には、祖母が突然『ハワイに行きたい!』と言い出したこともあり、
当時は珍しいハワイ旅行を3人で満喫したこともありました。
また『良い高校に行きなさい』と塾に通わせてくれたりと、
祖母は私が勉強に集中できる環境も整えてくれたのです。
18時きっかりに始まっていた夕飯も塾の時間に合わせ、
学校から帰ってきたら食べられる軽食を用意してくれて、
塾から帰ってきたらまたお腹を満たせるよう私だけの夕飯も準備してくれました。
受験が近くなると、塾から帰ってきても夜遅くまで勉強する日が増えましたが、
毎日のように夜食も用意してくれたのです。
その気持ちに応えようと必死に勉強した結果、志望校に合格することもできました。
その後、大学へ進学する際は一人暮らしを始めざるをえませんでした。
高校2年生の頃、祖父が他界し、一人で実家に残る祖母はとても寂しそうにしていたこともあり、
折を見て実家に帰るようにしていました。
就職先は東京で、さらに離れてしまいましたが、
年に一度は必ず帰省し、元気な顔を見せるようにしてきました。
そんななか、昨年の2月、父から早朝に連絡があったのです。
その時点で少し察することはできましたが、届いたのは祖母の訃報でした。
3年ほど前に大けがを負い、それからは施設で暮らしていましたが、
祖父が他界してから一人で実家に住んでいたこともあり、施設では楽しそうに暮らしていました。
認知症も進んでいましたが、帰省すると『暁人が帰ってきた』と優しい笑顔を浮かべながら応え、
私の顔と名前だけは忘れることがありませんでした。
現在はコロナ対策という意味もありますが、外出先でも、帰宅時も必ず最初に手を洗っています。
また休日は18時から夕食を取るなど、祖母と暮らした名残が、自分の中に残っています。
コロナが落ち着いた際には、北海道へ帰省し、祖父母のお墓参りに行きたいと思います。
日本財託 経理部 山口 暁人(やまぐちあきひと)
◆ スタッフプロフィール ◆
北海道札幌市出身の44歳。
経理部財託経理チームで日本財託の月次決算の取りまとめを行っています。
最近の流行は「観る雀」です。観る雀とは麻雀を自分でするのではなく、観戦することです。
最近はeスポーツにならって麻雀をチーム戦として競う「Mリーグ」という番組にはまっています。